チャイナなブログ ANDOR Kishimura

三国志など中国語のドラマや日常情報について綴ります

三国志 劉備漢中王を名乗る ≪three kingdoms-70≫

劉備の軍師「龐統」が殺され、その仇にと「劉璋」が統治していた西川を占領した劉備は、「成都」に入りここを拠点としました。
 
この後「定軍山」の戦いでは、老将「黄忠」の働きにより、劉備曹操に大勝利します。
昔小さな勢力だった劉備は天にも昇る勢いとなり、曹操劉備孫権の三国鼎立の基礎が出来上がります。
 
ところで、「定軍山」は現在の陝西省漢中市にあり、お茶の名産地だそうですよ。
定軍のブランド茶「定軍茗眉」は、1996年には国賓に出されるお茶として選出されたそうです。
 
さて、定軍山の戦いに大勝利した劉備は、幕僚たちの懇願に仕方なく応じると言う形で「漢中王」を名乗ります。
この時代、臣下の身分の者が王を名乗るのに自分から立候補、と言うわけに行かず、そんな事はかなり図々しい振る舞いだとされていました。
 
中国のお得意の論法「上は天意に従い、下は民意に従う、故にこれは自然の摂理である」が必要なんですね。
だから、劉備も内心は王になりたくて仕方なかったかと思いますが(曹操は既に「魏王」だったし)、民意を代表しての臣下の懇願が必要でした。
 
この時滔々と「主公は王位に就くべきだ」と述べたのは、「法正」と言う参謀です。
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「法正」は元々「西川」の「劉璋」の配下でしたが、劉璋に見切りを付け劉備陣営と内通した人です。
義と言う点からみると、あまり好ましい人では無い様ですが、劉備はこの「法正」を非常に高く評価していました。
ライバル曹操も法正を得られなかった事を悔しがったと言います。
 
一般的には「諸葛亮」が劉備の一番の参謀の様に思われていますが、この頃は法正をより重用していたようです。法正の献策は、ほぼ100%採用された様です。
諸葛亮は軍事より内政と糧食・兵器の調達を受け持っており、どちらかと言うとバックヤードに徹していたようです。
 
これよりかなり後に 劉備が無茶な東呉征服を試みるのですが、重臣達はこぞって反対しました。
しかし、諸葛亮をもってしても劉備の決心を翻す事ができず、「法正が生きていたら、陛下をお止めできたのに・・・」と彼に悔やませたほどです。
 
法正の存在は、この「新三国」でも出ては来ますが、実際の彼の活躍よりかなり差し引かれた表現になっています。
諸葛亮を目立たせる為には、仕方なかったのでしょうね・・・
諸葛亮を演じるル―・イ―さん、カッコいいからなあ…↓ (法正さんは ソコソコですね・・・)
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