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三国志など中国語のドラマや日常情報について綴ります

三国志 関羽死す≪three kingdoms-70~73集≫

ただ今「三国志」は91集を見ています。諸葛孔明の2度目の北伐で、これから司馬懿との一騎打ち。
あと4集でこのドラマも終わりです…。
88集辺りでは、諸葛亮の朋友「趙雲」が亡くなります…。趙雲は戦地ではなく自宅で多分老衰(?)で亡くなりました。
戦に明け暮れた人にしては、静かな死ですね。
 
さて、ついにここに来ましたね。
桃園で誓い合った3兄弟の一人、関羽が亡くなります。
元々私はこの義兄弟にあんまり思い入れが無く、どちらかと言うと曹操孫権などに興味があるので、少し淡々と書いてしまうかもしれません。
関羽が好きな方は面白くないかも…)
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 関羽が死に至る前段階として、実は「定軍山」での大勝利があります。
劉備はこの勝利を機に、自ら「漢中王」と名乗り一国一城の主となりました。
 
これは、彼の大義名分「漢王室の復興」に役に立っているかは???ですね。
曹操劉備のことを「偽義的人」と言うのは一理あります。
客観的に観て曹操の方が正しいもの。
ただ、中国特有の「太極」という思想からすると、「偽義も真義なり」とも言えます。
一つの事が究極まで極まると逆の意味を生む、と言います。
だから、嘘であっても嘘を極めれば真となる…。
話がそれました。
 
劉備が王となり、関羽も「前将軍」に任ぜられ、劉備陣営は飛ぶ鳥を落とす勢い。
関羽は他の将軍が軍功を上げるのを見て、若干の焦りがあったのか、「樊城攻め」を決行します。
樊城は曹操陣営の拠点で「曹仁」が守っていました。
 
関羽達は、最初は優勢でしたが曹操の援軍が来た辺りから、樊城を攻めあぐねます。
関羽荊州を守っていたわけですが、「魯粛」亡き後の呉など取るに足りないと侮り、全兵力を樊城攻めに集めてしまいます。
空になった荊州をすかさず東呉の「呂蒙」が後ろから攻め、関羽は「麦城」で呂蒙に殺されました。
 
彼の現状分析の甘さと脇の甘さが出てしまい、自らの命も落としてしまったのでした。
関羽の首は呂蒙によって、東呉に持ち帰られます。
 
関羽は、あまりにも自分が優れた武人であった為に、自分さえいれば何でもできる、と思い込んでいたのかもしれません。
また、カリスマで有るがゆえに、組織で人を動かす事は不得意だったかもしれません。
関羽の配下には、あまり有名な武将はいないですよね。
人を使うより、自分が行った方が相手も怖がるし、すぐにカタが着きますから。
関羽呂布項羽とタイプが似ている気がします。
 
関羽亡き後の劉備張飛は さすがにガックリきたようです。
でも、「生まれ日は違っても、同じ日に死にたい」と言っていた「桃園の誓い」は守られませんでした。
二人はその後も生き続け、張飛は部下に殺され、劉備は志半ばで病死してしまいます。
曹操が「偽義」と言うのは、よく分かるな~。 
 
 
関羽の首が呂蒙に持ち帰られ、これが原因で今度は呉の内部がグラつき始めます。
亡くなっても関羽の影響力は大したものです!
 
 
 
 
 
次は久しぶりに呉のエピソードです。